疲れをとるクラシック音楽

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いまどき「クラシック音楽」を熱心に聴く明確な理由

クラシック音楽を聴くという行為に、なんの意味があるのか。録音技術が発達したいま、同じ曲を何人もの演奏家が、繰り返し楽譜通りに弾くことに意味はあるのか。
アーチストの作家性と、パフォーマンスの一回性に掛ける大衆音楽に、明らかに負けているのではないか。

    「いやいや、人類の遺産である名曲の魅了というのはね、汲めども尽きぬものがあるんだよ」

なんてことは口が裂けても言うまい。もはや「名曲」を名曲たらしめている確固たる価値観など、完全に失われた。神は、とうに死んだのである。
それでは、なぜ相変わらず(世界的に見ても絶滅危惧種レベルに少数派となった)我々はクラシック音楽を聴くのか。その理由は、クラシック音楽の演奏がはらむ「批評性」にある。

たとえばショパンの「英雄ポロネーズ」を例に取ってみよう。言うまでもなくこの曲は、1842年に作曲されて以来、プロアマ問わず数えきれないほど多くのピアニストによって演奏された。その多くは、他人の演奏や録音を聴いて「自分も弾いてみよう」と思ったはずだ。
では、その演奏は他人と同じように弾こうとすることができるのか、自分が聴いた演奏と全く同じものになるのかというと、全くそうはいかない。

    「私は英雄ポロネーズを聴いて、その人と同じ楽譜を見ながら、弾いた」

という模倣的な行為が、他人との差異をもって批評となるのである。
あらゆるクラシック音楽の演奏は、このような批評的性格を帯びざるを得ない。クラシック音楽を味わうということは、具体的な演奏を介在する必要があるものであり、おのずと漏れなく批評を味わうことになるのである。

むろん、その批評性に無自覚な演奏もある。しかし、他人の演奏を聴いたことのある演奏家の演奏はすべて批評なのであるのに、それを自覚していないのだから退屈なものにならざるをえない。
英雄ポロネーズひとつとっても、かつてその昔には、最初の一撃をペダルを踏みながら「バァーン」と弾くことが当たり前だったのに(楽譜から見ても自然な弾き方だったのに)、

悪魔のようなホロヴィッツがペダルを踏まず、ぶつ切りに「バ…」と叩きつけたものだから、それ以降の人たちもそれが当たり前のように弾くようになってしまった。

    「いや、自分はホロヴィッツ知らないし」

などという輩は、無意識の思い込みだけで楽譜を処理していたということになり、こういう批評性の低い演奏家は、いくら指がピロピロ動いたって頭が空っぽな怠け者なので、プロとはとても言えないのである。

我々聴衆は、英雄ポロネーズという曲を聴きに行くだけでなく、それと同時に、ルービンシュタインホロヴィッツアルゲリッチの後で、英雄ポロネーズをいかに弾くことが可能かということを聞きに行っているのである。

そして我々は、自分たちの人生も同じような模倣と批評の中にあることを思い出し、鮮やかな批評的アプローチの演奏を聴くたびに、驚きと喜びを感じながら「ああ、自分ももう少し生きてみるか」と勇気づけられる。

そこには、批評性に無自覚な生き方を、「人生は一度限り、俺は俺の生き方をする」と無理やり肯定しようとする無教養な野蛮さに対する冷ややかな反発が含まれている。


Horowitz plays Chopin Polonaise Op. 53 in A flat major - YouTube