疲れをとるクラシック音楽

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誰もが書け、公開できる時代にモノを書くことの倫理――アントン・ウェーベルン「弦楽三重奏のための小品」

イケダハヤトとかいう人が、プロブロガーを名乗り、クラシックが好きだというのでブログをのぞいてみたが、あまりの退屈さに屁が出てしまった。

特に音楽について書かれているわけでもないし、たまにマーラーなんかの名前が出てきても、なんか芸術家を特権視し、それを支持する自分すげえ(言いたいだけやろ)みたいなことしか感じられない。

なぜ彼の書くものが退屈なのか。「誰もが書け、公開できる時代にモノを書くことは、それによって自分の書いたものが、自分の意図とは無関係に、思わぬ反応を呼び起こしてしまうことがありうる」ということに無自覚だからなのだと思う。

・書いたものが、誰かの役に立ってしまうこと
・書いたものが、誰かの迷惑になってしまうこと
・書いたものが、誰かの話の(コミュニケーションの)ネタになってしまうこと

そして、書くものは、自分も書かれる存在としてさらされることになる。イケダ氏は、このいずれにも責任を負わないとしながらも、やまもといちろう氏のブログでネタにされることは拒否している。これが、徹底的な自己肯定でしか乗り切れない論理的矛盾を露呈させている。

彼は「自分では他人に迷惑をかけているつもりはない」と言い張るかもしれないが、それは明らかに間違いだ。自分とは利害関係が正反対な人が、きっと迷惑を被っているのである。それが彼自身が言う、書くことは生きることの中身である。

その点、やまもと氏のように、上記の制約の中で書かざるをえないと自覚している人は、あえて「他人に迷惑をかけている」ように見えることを果敢に書くことを厭わない。

他人の迷惑になる可能性がありながら、それが肯定される論理は何か。ひとつは「自己責任」論である。売られたケンカは買うも買わないも自由であり、結果は引き受けろよという論理である。

もうひとつは、一見すると矛盾するが「弱者保護」である。やまもと氏の煽りのウラには、いつもこの優しさが流れている。やまもと氏がアブラハムを攻撃することは、高岡氏にとっては迷惑千万ではあるが、高岡氏と利害を異にする人にとっては役に立つ情報になりうる。安藤美冬の件もそうだ(もちろん「ネタ性」も含んでいるけど)。

そういう、書くことの「功利性」「迷惑さ」「ネタ性」、そして「自己責任」と「弱者保護」という要素を意識しないブロガーがプロを名乗るのは、誠に心もとない。

イケダ氏のような虚しい饒舌の自己肯定にウンザリした日には、アントン・ウェーベルンの極限まで切り詰めた弦楽三重奏でも聞くがよい。


Emerson String Quartet @ WEBERN (6/9) Movement ...