疲れをとるクラシック音楽

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三善晃だけが本物の現代作曲家だった

三善晃が亡くなった。平素から三善さんはどうしているのか気になっていたし、先月も「三善晃 体調」といった言葉でネットを検索をしていたので、覚悟はしていた。

日本音楽界の重鎮で、桐朋学園大学長を長く務めた作曲家の三善晃(みよし・あきら)さんが4日午前10時55分、心不全で死去した。80歳だった。
http://mainichi.jp/select/news/20131006k0000m060013000c.html

それにしても、新聞記者というのは感受性に欠けた田舎者の仕事だから仕方ないとしても、「日本作曲界の重鎮」みたいな書き方は、あまりにもご本人にそぐわない。確かに大学の学長のお鉢を引き受けたりしたけど、「作曲界」なんていう業界志向からは限りなく遠い人だったし、何しろ重鎮とはかけ離れた「軽さ」の人だった。

軽さと言っても、軽やかさとか軽薄さではなく、常に創作に精魂を尽き果たし、地に足が着いていないような姿を見かけることが多かった。まるで霊魂が漂っているような存在感だった。20年も前からそうだった。社会的な権威とか圧力を感じさせない人だった。戦後の團さんとか芥川さんとか黛さんの、世俗的な華やかさとも対照的だった。

三善さんについて語るには、レクイエム、詩篇、響紋の「反戦三部作」を必ず聞くべきだと思う。反戦という呼び名は三善さん本人が望んだものらしいが、聞く人が感じるのは、米軍の攻撃の凄まじさや、虫けらのように殺される人々の惨たらしさ、それに犠牲者に対する三善さんの慟哭だ。

そこにはいわゆる甘っちょろい反戦のイデオロギーが入る余地はない。その意味で、個人的には「反戦」という呼び名に少し違和感がある。

三善さんはこの三部作で、自分と同時代に生まれ生きながら、戦争で先にこの世を去った死者との対話を試みている。これらの作品は、私ごとと言ってもいいのかもしれない。

しかし、その私ごとが同時代の惨劇と祈りを反映している限り、ある普遍性を持つ。彼は時代を生きてそれを仕事に真摯に反映させた、真の現代作曲家だったと言える。

西洋から目新しい表現を移植して、様々な意匠をひけらかすような「現代作曲家」はたくさんいたが、そんなママゴトは作曲でも何でもない。武満徹も倫理的な作曲家だったが、あまりにも個人的すぎて、時代を超越してしまった感がある。

三善さんも、もちろん最新の表現方法を取り入れていたはずだが、それはあくまでも、すれっからしの現代人にとってリアルな表現を取るためであり、手法自体を競うものではなかった。

彼の三部作、特にレクイエムは、終戦の日に全ての児童に聞かせるべきだ。日本人というのは、人を生前に評価することを嫌う。たぶん、ねたみなんだろう。ケチな話だ。三善さんは亡くなったので、みんな思う存分作品を聞き、評価して欲しいものだ。

ユリイカも特集するのかな。僕のところに原稿の依頼こないかな。個人的に聞きたかったのは、能の世界観と音響の影響だったが(例えば上の動画の9分以降)、それはもう叶わない。