疲れをとるクラシック音楽

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「強制された歓喜」とやらにあえて乗ってみてやる――ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」

このブログはさっき思いついて作ろうと決め、ブログサービスを探したら「はてな」がよさそうだったのだが、書いてみたら思いのほか書きやすくて満足だ。思いつくままに何本も書いてみよう。粗製濫造だ。

交響曲第5番がつづいたから、ショスタコーヴィチの5番でも紹介するか。関係ないが、ネット時代というのは、本当にいいね。昔は何か書こうと思ったら、その文章というかスペースの中でいろいろ完結しなければならなかったが、いまは適当な断片を書いて、あとは「おめー知らねえの? ググレカス」と言えば足りる。

ショスタコ好きを自認するなら、ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」という本に目を通しておくべきだ。それによると、ショスタコの5番の最終楽章は、スターリンの目を気にして「勝利の行進曲」仕立てになっている――ということになっているのだが、実は違って、国家からの「強制された歓喜」なのだという。

この「証言」については、ニセだという指摘もある(興味があればググレ)が、反原発派の陰謀論じゃあるまいし、知っていてもいいが、そんなゴシップに音楽が振り回されるは愚の骨頂だ。

重要なのは、屁理屈並べて腕を組んでいるのではなく、それが音楽にどう反映するのかだ。バーンスタインの出した結論は、堂々たる行進曲のスピードを速め、追い立てられるように演奏することだった。

Shostakovich, Symphony No. 5,Bernstein