疲れをとるクラシック音楽

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「東京大空襲」とショスタコーヴィチ「ピアノ三重奏曲第2番」との戦慄すべき偶然の一致

本の学校教育が戦争についてきちんと教えないのには、確固たる理由がある。それは、戦争の具体的な事実について知れば、日本だけでなくアメリカの「戦争責任」や「戦争犯罪」について考える材料を与えることになってしまうからである。

少なくとも次の2点に関するアメリカの犯罪責任を問わせないために、これまであえて知らしめなかったのは、ある意味得策だったろう。そうでもしなければ、日本人はアメリカの生活に憧れるなんてことはなかったに違いない。

その2点とは、原爆投下と空襲、特に「東京大空襲」のことだ。68年前のきょう、1945年3月10日の東京大空襲では、一般市民を中心に10万人が一夜にして死んだ。被害の大きさからは信じられないことだが、このことは学校でほとんど教えられていない。当時の米軍は、東京の下町に紙と木の脆い家屋が密集していることを調べあげ、そこに向かってナパーム弾という爆弾を集中投下したのである。罪なき市民が虐殺されたと言ってもいい。

この件については、いくら調べても本当に恐ろしいことばかりで(米軍が日本家屋と同じ材料で建物を作って綿密なシミュレーションを行なっていたなど)、日本の学校教育がこれを教えたがらない理由がよく分かる。こんなものを知ってしまったら、アメリカ製の商品など買いたくなくなるに決まっている。

戦争被害の大きさとしては、怪しげな韓国の従軍慰安婦説とか、あからさまに作り話も盛られた南京大虐殺説の比ではない。自分たちが繁栄を享受している足元で、軍人ではない普通の市民を狙った惨殺が行われたことを知らない日本人が多すぎる。

実はその様子が垣間見られるような音楽が残っている。三善晃の「レクイエム」である。小学校4年生の田中予始子さんが書いた「ゆうやけ」という詩に付けられた音楽がとにかくすさまじい。自らも機銃掃射で知人、友人や恩師を亡くした作曲家の悲痛な思いがこもっている。


三善晃(AKIRA MIYOSHI) 「レクイエム」 第二部・三部 Part 2

「人が死ぬ/その/世界の/ひの中に/わたし一人いる/そして、/わたしもしぬ/世界にはだれもいない/ただ/かじが/きかいのように/もうもうともえていた」(上記の動画では8分30秒あたりから)

これ以外にも、まるで東京大空襲を扱ったかのような音楽がある。ショスタコーヴィチピアノ三重奏第二番である。一楽章と三楽章は、まるで空襲の犠牲となった死者たちへの悲痛な追悼のようだ。四楽章は空襲の様子を描写しているとしか思えず、特にピアノは、ナパーム弾が破裂してゼリー状の炎が激しく飛び散っているようである。

Shostakovich Trio No.2 Mv.4 Pt2, Argerich, Kremer & Maisky

東京大空襲とこの曲の関係は、単なる個人的な妄想だろうと放置していたが、このたび少し調べてみて驚いたことがある。東京をターゲットにした米軍の本格的な空襲開始と、この曲の初演が、実はまったく同じ日に行われていたのだ。

ウィキペディアによれば、「東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けた」とされている。11月14日は、サイパン島を制圧した米軍がB-29による爆撃を初めて行った日。1942年にも航空母艦による東京攻撃があったが、B-29による攻撃はその比ではなかった。

同じ日、レニングラードではショスタコーヴィチ自身のピアノによる「ピアノ三重奏曲第二番」が初演されていた。ウィキペディアによれば、第四楽章は「墓場に眠る遺骨の上をうろつく男を描写している」という噂があるらしいが、大空襲後の東京は、まさに死体の上を歩く状況だったらしいことは、数々の証言が残っている。

西池袋にクラシック音楽を流すバーがあった――モーツァルト:クラリネット協奏曲/ブラームス:間奏曲集

池袋で所用を済ませたあと、人から聞いた西池袋のAというバーに行って、妙なことが気になった。樽に入ったシングルモルトも、ちょっと気の利いたナッツも、照明も店員のサービスも申し分ない。カウンターも、さほどいい板ではないが居心地は悪くない。では、何が引っかかっているのか。

意外なことに、それは音楽だったようだ。まずいけないのは、ジャズであること。それもイージーリスニングっぽいやつはいただけない(偶然きのう書いたドビュッシーの「月の光」をモダン・ジャズ風にやったやつだった)。集中力をそぎ、酒のうまさが全く活きないのだった。

さらにいえば、スピーカーが良くない。JBLBOSE風の小さなモニタースピーカーだが、店主が音楽好きの客を満足させる意図を持っていないことが見え見えだった。とはいえ、カップル客の雰囲気を邪魔しないためには(立教大生らしいパーカーを着たカップルがいた)、むしろこの程度の方がいいかもしれないと考えると、店主は周到に調整していたのかもしれない。

ということで酒の見事さに感心しつつ、いまひとつ納得できないまま。どこかで飯でも食おうかと細い道を歩いていると、もう一軒、Cというバーがあったので入ってみた。驚くことに、この店はお定まりのジャズではなく、クラシックを掛けていたのであった。

ホームページによると、その月は店主が5枚のCDを選んでかけているという。カウンターに座ったときは、モーツァルトのクラリネット協奏曲が掛かっていた。この演奏は以前よく聞いていたから分かる。アルフレート・プリンツがソロ・クラリネットを吹き、ウィーン・フィルが伴奏したものだ。


Mozart Klarinetten Konzert Kv.622-1(1/2), Karl Bohm, Prinz

指揮はカール・ベーム。若いころに聞いたときは退屈だと思っていたが、歳を取るとこの退屈なほどの柔らかさが極意だということがよく理解できる。カウンターの中の店員に聞くと、さっきまでブラームスの間奏曲集が掛かっていたのだそうだ。

こちらの演奏は、グレン・グールド。あの伝説的な名演である。「あー、ちょっといま掛けてくれませんか。いい音楽を聞きながら酒を飲みたかったんです」と喉まで出掛かったが、もしそうしてもらったなら終電まで帰れなくなると思い、注文をぐっとボウモアで飲み下して帰った。


Brahms - Intermezzo Op.117-1

帰りの電車の中で、自分がウィスキーとスピーカーにここまで高い期待を持っていたことに気づいて、少し驚いたものだ。もしかすると、俺が幸せになるためには、この2つさえあれば十分なのかもしれない。

宇宙空間のような音楽をシンセで演奏した偉業――ドビュッシー「月の光」

前回、疲れというものが神経ではないかと書いたが、そんなことはどうでもよくて、疲れをとるには寝るに限るのである。ブログを書くために音楽を探しながら、これは疲れをとるのか?とらぬのか?と自問している暇があったら、さっさと寝たほうがいい。

で、穏やかに眠りにつける音楽は何かということだ。この場合の音楽は、ゆったりしたテンポの静かな音楽がいいだろう。苦味より甘さがあったほうがいい。…と、ここまで書きながら、どんな曲がいいのか、まだ思いつかない。うーん、どうしようか、もう眠くなってきた。

こうなったら、ドビュッシーなんかどうだろうか。「牧神の午後への前奏曲」あたりがいいと思いつつ、ここはベタに「月の光」で行こう。曲の長さは長すぎず、ホドホドの方がいいのだ。

この曲の浮遊感を出すために、ドビュッシーはさまざまな音楽上の工夫をこらしている。小節線をまたぐスラーやタイの多用、黒鍵を使った微妙なハーモニーなど。

とはいえ、技巧としてそういうことをしたのではなく、ドビュッシーの頭の中の響きを楽譜に定着しようと思ったら、いろいろはみ出してしまったというのが実情だろう。もう3拍子だの4拍子だのという世界を超えてしまっている。

まるで宇宙空間のような音楽。この曲をシンセサイザーで演奏した冨田勲は、本当に先見性があると思う。ドビュッシーが生きていれば、たぶんシンセを使っていたとおもわれるからだ。


Debussy / Clair de lune by Tomita Isao 月の光 / ドビュッシー 富田勲

ニーチェに「彼は人間ではない、病だ」と言われた男――ワーグナー「ワルキューレの騎行」

疲れというものは何なのかと考えると、精神的、身体的な疲労が一瞬で飛んでしまうことがありうるとすると、神経が大きな鍵を握っていると思えてならない。もっといえば、神経に作用する特定のホルモンが物理的に足りなかったり、過剰だったりするのではないかと。

で、どういう機序か知らないが、この脳内ホルモンのようなものの分泌に、音楽が作用している気がする。作家でも、どうにもやる気が起きないときには、決まってワーグナーを大音量で聞くという人がいる、という風にだ。

リヒャルト・ワーグナーというのは、もうチンポそのものみたいな人間だったようだ。やたらめったらオンナに手を出し、二股三股は当たり前。自分の支援者だったハンス・フォン・ビューローの妻を寝とって子どもを産ませ、自分の妻が死んだ後に再婚するなど、見境のない最低人物だったようだ。

平気でウソを吐くわ常軌を逸する浪費をするわ、反ユダヤの論文を書いてナチスに利用されるわ。あのニーチェに「彼は人間ではない、病だ」といわれるんだから、確かに凄まじい才能ではあったが、周囲からすれば大迷惑な人間だったのだろう。

しかしこういうチンポ丸出しのエピソードは、自分はワーグナーほどの才能はないが、俺の自己中心さやわがままなど屁でもないと思わせてくれるところがいい。もう何でもいいんだ、やりたいようにやれば。あとは歴史が判断してくれる。ていうかホンネのところ、自分が死んだ後の歴史など知ったことではない。

不思議なことに、こんな大チンポの音楽が、いまでも我々を励まし、癒してくれる。その図々しいチンポ性、抑圧的な父権制にもかかわらずである。だいたい「ニーベルングの指環」なんて、4夜にわたって上演されるんだぜ。狂ってるとしかいいようがない。

で、ワーグナーは何でもいいのだが、とりあえず「ワルキューレの騎行」でも聞こうではないか。トロンボーンやトランペットが演奏する勇ましい主旋律に耳が行きがちだが、後ろで飛んだり跳ねたりしているホルンのフレーズがこの曲のキチガイさを支えていることに気づいた方がいい。


Wagner-Die Walküre- Klaus Tennstedt -LPO at Tokyo1988

ブラームスの交響曲第1番は、第2楽章から聞くに限る。なんなら、それで終わりでもいい

仕事を終えて疲れ果て、飯も食い終わったので一刻も早く風呂に入って寝たいのだが、こういうときこそ「疲れをとる」という本ブログのテーマの真価が問われる。さて、いま何が聞きたいのだ私は…。

そうだ、こういうときこそ浮世離れしたコテコテのクラシック音楽はどうだろう。ブラームスの交響曲、それも一番有名な1番なんかいいじゃないか。自ら「ベートーベンの交響曲第10番」たらんとし、着想から完成まで21年もかかったという、あまりにも擬古典的な変態曲を聞こう。

とはいえ、必ずしも重苦しい1楽章から聞く必要なんてない。聞きやすい2楽章からでもいいし、なんだったらそれだけだっていい。交響曲という重厚な音楽を、最初から最後まで順番に聞かなきゃならないなんて、疲れの多い現代人には過重な要求である。自殺行為。幸いテクノロジー的にも、どこから聞いてどこでやめてもいいようになっている。

で、この2楽章の甘さが、実にいい癒しの音楽なのである。ヴァイオリンのゆったりとしたメロディーが、30秒あたりで現れるコントラバスやチェロの動きが止まるのと同時に、一瞬行き場を失って宙に浮く。動き出して、また止まる。この浮遊感がいい。これぞブラームスの童貞力の凄さ。

2楽章がよほど気に入れば、それから他の楽章を聞いたっていい。しかし、やっぱり重苦しい1楽章から甘い2楽章を経て、堂々たるフォナーレに行く流れは、交響曲を通しで聞く醍醐味だ。だが今日は2楽章だけ聞き終わったら、もう風呂に入ることにする…。


Brahms Symphony No.1 mvt. II

天才の偉業に「生きる価値」を見出して慰められることもある――ラヴェル「ラ・ヴァルス」

いまの時代、テレビなどのメディアを含めて半径5メートルくらいしか見ていないと、世界というのはあまりにくだらなくて生きる価値などないと思えるかもしれない。しかし、過去も含めて世の中には天才と呼ばれる人たちがいる。クラシック音楽を「理解する」ということは、人間は、世の中は捨てたものではないのだということを実感することでもある。それを「救い」と言ってもいいかもしれない。

世界で最も洗練された音楽を書いた人のひとりが、ラヴェルである。この人を、あのアイディア一発の「ボレロ」の作曲家としか理解しないのは、あまりにも世界が狭すぎるし、生きた作曲家を冒涜している。少なくとも「ラ・ヴァルス」だとか「クープランの墓」だとか、「ダフニスとクロエ」だとか「ハイドンの名によるメヌエット」だとか。

個人的には「ラ・ヴァルス」というのは本当に美しい曲だと思う。ウィンナワルツのオマージュとして書かれたこの音楽の魅力に一度とりつかれると、逃れることは難しい。初めて出会ってから30年以上経っても、ふとした瞬間に脳裏に上がってくるほどだ。

ただ、ラヴェル自身が幸せな一生を送ったかどうかは別で(ウィキ参照)、その影には第一次世界大戦がある。もしも戦争がなかったなら、もっともっとたくさんの傑作が生まれていたはずなのに、と考えると、いまの日本で「時代が悪い」などと文句を垂れているのが申し訳ない気がする。

ただ、大戦の影響のおかけで、ラ・ヴァルスのフィナーレがあそこまで強烈なものになっているのだとすれば、天才を含めて誰もが生きる時代による制約を受けざるを得ないのか、という諦めの気持ちも湧く。


Ravel / Dutoit: La Valse

ハンバーグとカレーだけでは死ねない人のために――武満徹「弦楽のためのレクイエム」

どういう音楽が疲れを癒すのか考えてみるが、それは一律ではない。テンポの速いものもあれば遅いものもあり、音量のうるさいものもあれば、静かなものもある。響きの甘いものもあれば、苦いものもある――。おそらく、こんな3次元マトリクスで整理することはできるのではないか。

テンポが遅くて音量が静かで、響きが甘い音楽。あるいは逆に、テンポが速くて音量が大きくて、響きが苦い音楽。単なる好みの問題を超えて、我々が直面する疲れとの関係で、いずれの音楽も日々の疲れを癒す可能性がある。ただし、「音楽は音を楽しむと書く」とかいう人は、苦い響きの音楽がなぜ人を癒すのか、よく理解できないのかもしれない。

我々は日々思うようにならない世の中で、かろうじて生き延びている。そんな生活の苦さを癒すには、かえって苦い食べ物だとか、苦い音楽とかが救いになりうるのだ。40過ぎても巨人ファンだのロックが好きだの、大好物はハンバーグとカレーと言っているような人には、そもそも疲れも癒しも存在していないのではないか。

ハンバーグとカレーだけでは死ねない人は、レクイエムを聞くのがいいと思う。死んだ人を悼む気持ちが込められた音楽の悲しさが、他人を癒すこともあるだろう。レクイエムといえばブラームスだのヴェルディだのフォーレだのいろいろあるが、ここではカトリックの典礼文とは関係のない、ただの追悼音楽を。


TAKEMITSU - Requiem for Strings.